前回の記事では、わたしが最近大切にしている
「あわひ」という感覚について書きました。
以前のわたしは、かなりの合理主義者でした。
いかに効率よく動くか。
いかに無駄なく進めるか。
余白があれば、そこに何かを入れる。
そんなわたしが今は、「余白を余白のまま残しておく」ことを
意識するようになりました。
今回は、そんな変化にもつながっている、
カタカムナの「アワ」と「サヌキ」について書いてみたいと思います。
「アワ」と「サヌキ」
カタカムナを学ぶ中で出会った、
「アワ」と「サヌキ」という考え方。
さまざまな解釈がありますが、
わたしはこれを、
自分の中にある異なる二つの性質を眺めるための
ひとつの視点として受け取っています。
わたしなりに、とてもシンプルに表現するなら、
サヌキは、
考える。
決める。
進む。
形にする。
外へ向かって働きかける。
一方、アワは、
感じる。
受け取る。
待つ。
委ねる。
まだ形になっていないものを感じる。
そんなイメージです。
どちらが
男性で、どちらが女性、という単純な話ではありません。
わたしたちは誰でも、男性性、女性性の両方を自分の中に持っている。
わたしはそんなふうに捉えています。
わたしは、ずっと「サヌキ」が得意だった
この考え方を知ったとき、
「ああ、わたしはずっとサヌキ的な力を
たくさん使って生きてきたんだな」
と思いました。
考える。
情報を集める。
整理する。
判断する。
決める。
そして、動く。
産婦人科医という仕事でも、
この力はとても大切です。
目の前で起きていることを把握して、
必要な情報を整理し、限られた時間の中で判断する。
ときには迷っている時間がないこともあります。
そして仕事だけではなく、
わたし自身も昔から、考えて答えを出すことが得意でした。
何か問題が起きたら、
「じゃあ、どうする?」
と考える。
目標が決まれば、
「そのために何をすればいい?」
と逆算する。
できるだけ効率よく、できるだけ無駄なく。
そうやって前へ進んできました。
そして、この力のおかげでできたことも、
本当にたくさんあります。
だから今も、サヌキ的な自分は大好きです。
でも、「感じる」より先に「考える」ことも多かった
一方で、カタカムナを学んだり、
自分の身体に意識を向けたりするようになって、
少しずつ気づいたことがあります。
わたしは、
「どう感じている?」
よりも先に、
「どうしたらいい?」
と考えていたのかもしれない。
本当は疲れているのに、
「あとこれだけやってしまおう」
と考える。
なんとなく違和感があるのに、
「でも、こっちの方が合理的だから」
と進む。
何かが起きたときにも、その感覚を十分に味わう前に、
「じゃあ次はどうする?」
と答えを探し始める。
考えることが悪いわけではありません。
ただ、
「感じる」というプロセスを飛び越えていたことが、
思っていた以上に多かったのだと思います。
アワを意識してみる
そこで、少しだけ順番を変えるようになりました。
すぐに答えを出す前に、
「わたしは今、どう感じている?」
と自分に聞いてみる。
身体はどう感じている?
呼吸は?
なんとなく惹かれる?
それとも、なんとなく違う?
まだ答えが出ていなくても、そのまま少し待ってみる。
何かをしようとする前に、まず受け取ってみる。
わたしにとって、
それが「アワを意識する」ということのひとつです。
すると不思議なことに、
一生懸命考えて答えを出そうとしていたときよりも、
自然に「こっちだな」と感じられる瞬間があります。
それからサヌキの力を使って、
考えて、形にして、動いていく。
感じる。そして、動く。
この両方がある方が、今のわたしには心地よいのです。
サヌキを捨てて、アワになるわけではない
ここは、わたしがとても大切にしているところです。
アワを知ったからといって、
「これからは考えず、感覚だけで生きよう」
とは思っていません。
むしろ、それは違うと思っています。
医学や科学を大切にすること。
情報を集めること。
論理的に考えること。
必要なときには決断すること。
そして行動して、現実の中で形にしていくこと。
これらは今でも、わたしにとって大切なものです。
でも同じくらい、
自分がどう感じているか。
身体は何を伝えているか。
まだ言葉になっていないものがあるのではないか。
そこにも意識を向けてみる。
アワか、サヌキか、ではなく、アワも、サヌキも。
どちらか一方になる必要はないのだと思っています。
違うものが、違うまま存在していい
この感覚は、
アワとサヌキだけではありません。
医学と感覚。
論理と直感。
身体と心。
自分と他者。
一見、
反対側にあるように見えるものを、
わたしたちはつい、
「どちらが正しいのだろう」
と考えてしまいます。
でも最近のわたしは、
どちらかを消して、
ひとつにしなくてもいいのではないかと思っています。
違うものが、違うまま存在している。
その「あいだ」に立ってみる。
すると、
どちらか一方だけでは生まれなかったものが、
そこから生まれてくることがあります。
その「あいだ」もまた、
わたしにとっての「あわひ」です。
「どちらか」ではなく、「どちらも」
以前のわたしなら、
合理的であることと、
感覚を大切にすることは、
少し離れたものとして捉えていたかもしれません。
でも今は、
ロジカルに考えるわたしも、
感覚で受け取るわたしも、
どちらもわたしだと思っています。
医師として科学を見るわたしも、
カタカムナという世界観を面白いと感じるわたしも、
どちらか一方だけが「本当のわたし」なのではありません。
感じて、受け取って、待つ。
そして必要なときには、考えて、決めて、動く。
アワとサヌキを行ったり来たりしながら、
その「あいだ」に生まれるものも大切にしてみる。
それが今、わたしが心地よいと感じている生き方です。
「どちらか」ではなく、
「どちらも」。
そして、その二つの「あいだ」にも、少し余白を残しておく。
わたしは今、そんな「あわひ」を楽しんでいます。

















コメントを残す