これまで、「あわひ」という言葉から、
わたしが大切にしていることを書いてきました。
ひとつ目は、余白を余白のまま残しておくこと。
ふたつ目は、自分の中にある「アワ」と「サヌキ」、
異なる二つの性質のどちらか一方を選ぶのではなく、どちらも大切にすること。
そしてもうひとつ。
カタカムナを学ぶ中で、わたしがとても好きになった感覚があります。
それが、
「球体感覚」
です。
わたしたちは、いつも「どこか」から世界を見ている
目の前に、ひとつの球があるとします。
正面から見れば、正面しか見えません。
裏側に何があるのかは、そこからは見えません。
少し右へ動けば、違う面が見えます。
左へ動いても、上から眺めても、見える景色は変わります。
でも、球そのものが変わったわけではありません。
変わったのは、
「どこから見ているか」
です。
これは、人や出来事を見るときにも
同じなのではないかと思っています。
わたしたちはいつも、
自分が立っている場所から世界を見ています。
これまで経験してきたこと。
育ってきた環境。
持っている知識。
大切にしている価値観。
今の自分の心や身体の状態。
そういうものを通して、
目の前の出来事を見ています。
つまり、わたしが見ているものは確かに
「わたしに見えている世界」ではあるけれど、
それが球体のすべてとは限らない。
わたしは、この感覚をとても大切にしています。
「正しい」と思ったときほど、少し動いてみる
以前のわたしは、
「どちらが正しいのか」
を考えることが多かったように思います。
情報を集めて、整理して、根拠を探して、答えを出す。
医師としては、とても大切な力です。
そして今も、その力を大切にしています。
でも、人と人との関係や、生き方のように、
ひとつの正解では割り切れないものもたくさんあります。
そんなとき、わたしは最近、
「今、わたしはこの球のどこから見ているんだろう?」
と考えるようになりました。
少し離れてみる。
反対側へ回ってみる。
相手が立っている場所から想像してみる。
時間軸を変えてみる。
すると、さっきまで「こうに違いない」と思っていたものが、
少し違って見えることがあります。
同じ出来事にも、いくつもの面がある
たとえば、過去の出来事。
そのときは、
「どうしてこんなことが起きたんだろう」
と思っていたことが、
何年か経って振り返ると、
「あの出来事があったから、今ここにいる」
と思えることがあります。
出来事そのものが変わったわけではありません。
見る場所が変わったのです。
今の自分から見るのか。
10年後の自分から見るのか。
自分から見るのか。
相手から見るのか。
ひとつの出来事には、
ひとつの意味しかないのではなく、
見る場所によって、いくつもの意味が現れる。
そう思えるようになってから、
目の前の出来事を以前より少しだけ柔らかく
眺められるようになりました。
人間関係も、球体で眺めてみる
人との関係でも、この感覚はとても役に立っています。
わたしには、わたしから見えている相手がいます。
でも相手には、相手から見えているわたしがいます。
そしてきっと、
「わたしから見たこの人」
と、
「別の誰かから見たこの人」
も違います。
どれが本当のその人なのでしょう。
たぶん、どれもその人の一部です。
でも、どれひとつとして、その人のすべてではありません。
そう考えると、
「この人はこういう人」
と簡単に決めつけられなくなります。
自分と意見が違う人に出会ったときも、
「どうして分からないんだろう」
ではなく、
「この人は、球のどこからこれを見ているんだろう?」
と思ってみる。
もちろん、すべてを理解できるわけではありません。
同意できないこともあります。
距離を取った方がいい関係もあります。
でも、
理解することと、
同意することは同じではありません。
相手の立っている場所を想像することは、
自分の考えを捨てることでもありません。
ただ、自分が見えている面だけで球体全部を決めない。
それだけで、人との「あいだ」に少し余白が生まれる気がしています。
医療の中でも感じる「球体」
産婦人科医として人と関わっていても、
ひとつの出来事をさまざまな方向から見ることの大切さを感じます。
医学的に何が安全なのか。
科学的な根拠はどうなのか。
これはもちろん、とても大切です。
でも、同じ出来事の中には、
その人が何を怖いと感じているのか。
どんなお産を望んでいるのか。
これまでどんな経験をしてきたのか。
家族はどう感じているのか。
医療者は何を心配しているのか。
いろいろな視点があります。
医学的な事実と、
その人自身の経験や価値観は、同じものではありません。
だからこそ、それぞれを混同せず、
どちらも大切にしながら全体を眺めたい。
わたしが医療の中で大切にしたいことにも、
この球体感覚はどこかつながっています。
球体の真ん中には「あわひ」がある
球体で世界を眺めようとすると、
「どちらが正しい?」
という問いだけでは見えなかったものが出てきます。
わたしの視点。
あなたの視点。
今の視点。
未来からの視点。
論理。
感覚。
それぞれが違う場所にありながら、
ひとつの球体をつくっている。
どれかひとつを消す必要はありません。
むしろ、それぞれが存在しているからこそ、全体が見えてくる。
そして、違うものと違うものの「あいだ」には、余白があります。
わたしは、そこにも「あわひ」があるように感じています。
わたしも、ひとつの球体として生きてみる
そして最近は、世界だけではなく、
自分自身も球体なのかもしれない
と思っています。
医師であるわたし。
母であるわたし。
合理的に考えるわたし。
感覚を大切にするわたし。
人と一緒にいたいわたし。
ひとりになりたいわたし。
前へ進みたいわたし。
少し立ち止まりたいわたし。
一見すると矛盾しているような自分が、たくさんいます。
でも、どれかひとつだけが「本当のわたし」なのではありません。
見る場所によって違う面が見えているだけで、
その全部を含んで、わたしというひとつの球体なのだ
と思っています。
だから、
「本当のわたしはどっち?」
と決めなくてもいい。
昨日と今日で言っていることが少し変わることだってある。
新しい経験をすれば、見える景色も変わります。
それはブレているのではなく、
球体の別の面が見えるようになっただけなのかもしれません。
見えていない面があることを、忘れない
球体感覚を持つということは、
すべての視点を理解することでも、
いつも俯瞰していられることでもないと思っています。
わたしだって、自分の考えに夢中になります。
腹が立てば、相手の立場なんて考えられないこともあります。
「絶対こっちでしょ」と思うこともあります。
それでも、
「今のわたしには、見えていない面があるかもしれない」
という余白だけは残しておきたい。
その余白があれば、
少し時間が経ったあとに、別の場所へ動けるかもしれません。
相手の言葉を受け取れるかもしれません。
今まで見えなかったものに気づけるかもしれません。
余白を残す。
違うものを、違うまま置いてみる。
そして、ときどき自分の立っている場所を変えて、
球体を眺めてみる。
わたしにとって「あわひ」を生きることは、
そんなふうに世界を見ることでもあります。
















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