妊娠すると、なぜつわりが起こるのでしょうか。
赤ちゃんを育てるためには栄養が必要なはずなのに、
妊娠初期になると食欲が落ちたり、
匂いに敏感になったり、
ときには食事や水分さえとれなくなったりします。
一見すると、とても不思議な現象です。
近年、この「なぜつわりが起こるのか」という問いに対して、GDF15(Growth Differentiation Factor 15)という
ホルモンが注目されています。
つわりに関係する「GDF15」
妊娠すると、母体の血液中のGDF15は大きく増加します。
そして最近の研究から、
妊娠中に増えるGDF15の多くは、
胎児・胎盤由来であることが分かってきました。
GDF15は母体の脳幹にあるGFRALという受容体に作用し、
・食欲を低下させる
・食べ物を避ける
・悪心を起こす
・嘔吐を起こす
といった反応に関係します。
つまり、
胎盤から出るシグナルが、
母体の「食べる」という行動にまで影響している
ということです。
では、なぜ胎盤はGDF15を出すのでしょうか?
実は、これはまだよく分かっていません。
以前から進化医学では、
「妊娠初期のつわりは、
食物に含まれる病原体や毒性物質から
母体と胎児を守るために進化したのではないか」
という仮説が提唱されてきました。
妊娠初期は、胎児の重要な器官が形成される時期です。
この時期に食欲を落としたり、
匂いに敏感になったり、
特定の食べ物を避けたりすることで、
食中毒や有害物質への曝露を減らしているのではないか、
という考え方です。
とても分かりやすい説明ですが、
現在では、それだけでは説明できない
可能性も指摘されています。
GDF15には別の役割があるのかもしれません
GDF15は、
もともと「つわりを起こすためだけ」のホルモンではありません。
現在、
・母体の代謝を妊娠に適した状態へ変化させる
・胎盤の発達や機能に関与する
・母体の免疫反応を調節する
・母体と胎児の間のエネルギー配分に関与する
など、さまざまな可能性が研究されています。
つまり、
胎盤にとって必要な理由があって
GDF15を大量に産生し、
その結果として母体に悪心や嘔吐が起こっている
可能性もあります。
「つわりは赤ちゃんを守るため」と一言で説明できるほど、
単純な現象ではないようです。
妊娠前のGDF15も関係する?
さらに興味深いことが分かってきました。
妊娠悪阻のリスクには、妊娠中のGDF15の量だけではなく、
妊娠前にどれくらいGDF15にさらされていたか
も関係している可能性があります。
妊娠前のGDF15が低い女性では、
妊娠悪阻のリスクが高いことが報告されています。
一方、妊娠前からGDF15が高い状態では、
妊娠によってGDF15が増加しても
反応が弱くなる可能性があります。
つまり、GDF15の「絶対量」だけではなく、
妊娠前から妊娠後にどれくらい急激に変化したか
も重要なのかもしれません。
現代社会では、つわりが強くなっている?
ここからは、まだ研究段階の仮説です。
私たちの祖先は、
現代より多くの病原体や寄生虫にさらされ、
身体活動量も多い環境で生活していました。
GDF15は感染や細胞ストレス、
激しい身体活動などによっても増加します。
そのため、祖先の女性たちは妊娠前から、
現代女性よりGDF15への曝露が多かったのではないかという
仮説があります。
一方、衛生環境が改善し、
生活環境が大きく変わった現代では、
妊娠前のGDF15が比較的低くなっている
可能性があります。
そこへ妊娠によって
胎盤由来のGDF15が急激に増えることで、
強い悪心や嘔吐につながっているのではないか。
これは「進化的ミスマッチ」という考え方です。
ただし、
「現代女性は昔の女性よりつわりが強い」と
証明されているわけではありません。
現在研究されている、とても興味深い仮説の一つです。
「つわりに意味がある」=「我慢する」ではありません
つわりに何らかの生物学的、
あるいは進化的な意味がある可能性はあります。
しかし、
「意味があるかもしれない」ことと、
「治療しなくていい」ことは全く別です。
特に妊娠悪阻では、
脱水や電解質異常、
栄養障害、
ビタミン欠乏、
血栓症などの合併症が起こることがあります。
近年の妊娠悪阻の診療では、
「ケトンが出るまで」
「体重が大きく減るまで」
我慢するのではなく、
症状や日常生活への影響を評価し、
必要に応じて早期から治療することが重要と考えられています。
妊娠初期だから薬を使わないことが、
必ずしも一番安全とは限りません。
母体と胎盤は、妊娠のはじめからやりとりしている
つわりはなぜ起こるのか。
まだ、すべてが分かったわけではありません。
でもGDF15の研究によって、
胎盤が母体の脳や行動にまで影響を与えている
ことが見えてきました。
妊娠は、赤ちゃんがただ母体の中で大きくなっていく
現象ではありません。
母体、胎児、胎盤の間では、
妊娠のごく初期から複雑なやりとりが始まっています。
その身体の仕組みを知ること。
そして、つらいときには医学の力を借りること。
その二つは、決して矛盾しません。
「妊娠だから仕方ない」と
限界まで我慢せず、
食事や水分がとれない、
日常生活が難しいほどつらい場合には、
ぜひ産婦人科に相談してください。
参考文献
Flaxman SM, Sherman PW. Morning sickness: a mechanism for protecting mother and embryo. Q Rev Biol. 2000;75(2):113-148.
Fejzo M, Rocha N, Cimino I, et al. GDF15 linked to maternal risk of nausea and vomiting during pregnancy. Nature. 2024;625(7996):760-767.
Stadtmauer DJ. Proximate and ultimate causes of pregnancy sickness. Evol Med Public Health. 2025;13(1):307-330.
Nana M, Painter R, Williamson C, Nelson-Piercy C. Hyperemesis gravidarum. Lancet. 2026;407(10523):78-89.
















コメントを残す